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心理カウンセラーリエコのブログ

「犠牲の愛」と「無価値観」を振り返る。【心のメイクを落とすWSⅡ レポート】

カウンセラーのリエコです。

 

根本さんの心理学講座レポート。
「誰かのために、愛されるために、必要とされるために、自分自身に分厚いメイクをして生きてきた人たち」を主人公に描いた著書「いつも無理してるなと思ったときに読む本」をもとに、3回に分けて掘り下げていくWSの2回目で、

今回のテーマは「誰かのためについ自分を後回しにしてしまう」

●いつも誰かのために生きてきた犠牲的な私
●つい周りの人に流されている、「私」がない私
●自分をちっぽけな存在だと思い込む無価値観の私
●争いごとが大嫌いな平和主義な私

こんな性質を備えた「私たち」を、さまざまなワークで掘り下げていきました。

 

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今回のテーマ、私にはとてもとても痛い内容でした。
あっちにも、こっちにも、「かつての私」がいたのです。


でも、私自身は犠牲しているつもりはなくて。

なぜかというと、自分をあと回しにしていることにも気づいていない重傷患者だったから!

かつてを思い返してみると、

自分を抑えることで物事が上手く運んだなら「それがベストだったんだ」と素直に思えたし、

自分が我慢することで大切な人が救われるなら、それが喜びにもなりました。

「自分」は大きな流れの中の一部であり、ほんのり虚しさがあったとしても、それは「全体的な利益」と相殺してプラマイゼロになってしまうような。

書き出してみると、この講座のテーマそのものです…汗

 

よくよく考えると、私の母も、そういう愛を与えてくれる人でした。看護師をしていたことが関係しているのかわからないけど、自分のことを二の次にして誰かを助けている母の姿をよく見てきたし、「誰かに物をあげるときには、良い方をあげなさい」という人です。

 

私には(たぶん母にも)、自分を後回しにしている自覚などなかったと思います。

もしかしたら「自分を犠牲にすること=愛すること」になっていたのかも。

 

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私は「自分を二の次にする」ことを、一概に「悪」だとは思いません。

そうせざるを得ないことだってあるし、「自分よりも相手に良かれ」と思えるほどに愛が大きいとも言えるからです。

でも、「犠牲の愛」には「罪悪感」が伴います。

「愛情」を与えると同時に、相手に「犠牲させてしまってごめんなさい」という「罪悪感」を与えてしまうんですね。

そして、その罪悪感が接着剤となって、「癒着」の関係が育っていきます。 

 

気持ちの良いコミュニケーションの基本は「win-winです。

健全な愛じゃないと、健全な関係は築けないのです。

どうせだったら、犠牲のない、「どちらも幸せ」な関係性を築きたいですよね。

そのためには、自分軸をもち、「自分はどうしたいのか」を自覚できることが大事な要素となります

そして、その「自分はどうしたいのか」の選択肢の中から、「今回は『自分より相手を優先』しよう」と自ら選んだのだとしたら、同じ「自分を二の次にする」でも、犠牲とはなりません。

 

 

今回のワークショップでも「誰に対して、どんな我慢をしてきたのか」を振り返り、「本当はどうしたかった?どうしてほしかった?」を探っていきました。


私の場合は、犠牲を自覚できていなかったせいか、昔を思い返してもすんなりとは浮かばなくて、ワークの時間はぼんやりしていたのですが、時間と共にだんだん加速して、「あれも、これも」と浮かんできました。 

仕事場や恋愛において、相手からも後回しにされるようなこと(2番目の立場にされたりね)があっても、かつての私は、相手の立場をおもんぱかったり、「好きだから仕方がないや」といって、受け入れてしまってたんですよね。痛い。

そして、それを「なんでもない振り」してきました。

それはきっと、かつての私が自分自身のことを「ちっぽけな存在だ」と思い込んでいたから。

相手に抗うことなく、相手と一緒になって「そうだよね」「そうなるよね」って同調していたのでしょう。

「無価値観」全開ですね。。

いま思い返すと、とても悲しいし、さみしいし、悔しいことでした。

自分をそんな気持ちにさせてしまって、あの時の私にゴメンナサイです。

 

 

講座後の数日は、ズンと思い気持ちに包まれて、ぐったり。

それはそうですよね、「自分を二の次にしていたこと」の破片を拾い集めるような作業をしていたんですもの。そりゃ、しんどいです。 

でも、ひとしきり感情を出したあと、私の胸に浮かんだのは、こんな感慨でした。

私はその時々で「その時のベスト」を尽くしてきたはずなんです、たとえソレが間違っていたとしても。

そして、その時の私のベストな選択が「自分を犠牲にして、誰かに愛を注ぐこと」だったのなら、そんな不器用な自分を抱きしめて、その時の自分の「精一杯」を受け止めよう。

 

すると、思い出すだけでしんどかった過去たちが、じんわりとあたたかさを帯びはじめて。

自分に寄り添うってこういうことなのかなぁと感じたのでした。

そして、そんな自分をもう同じ目にはあわせないゾと決意したのでした。

 

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セミナーで言われたかどうか、記憶がはっきりしないのですが(最後の方は朦朧としてしまって…)、著書の紹介にはこんな言葉が載せてありました

そのメイクは彼女たちにある種の「成功」をもたらすこともあります。
それは資格や一流企業での仕事だったり、周りの人たちからの信頼だったり、居場所だったり。

意図せず、自分自身に「分厚いメイク」をしてきたことで、本来の自分からすればたくさんの負荷をかけてきてしまったわけだけど、その恩恵だって何かしらあるはず。

私の場合は、仕事を持てていること/自分で生活を支えられていること/職場での出会い/心の学びに辿り着けたこと/根本さんに出会えたこと/お仲間たちに出会えたこと/などなど

 

辛いこと大変なこともたくさんあったけど、その時の自分のおかげで、ライフワークにも辿り着けていたことに、書いていて気づきました。

もしも「すっぴん」の自分で生きられていたら、今のような社会生活はできていなかった気がする。。そう思うと、手にしているものもたくさんありそうです。

過去の自分に「ありがとう」して、これからは「すっぴん」な私の新しいスタイルにシフトしていこうと思います。

 

 

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